タイトル マツ再生プロジェクトHOME 散策ガイドMENU
(外伝)72 沖縄県 仲原馬場(ナカバルババ)と松並木

所在地

国頭郡今帰仁村字謝名189番地ほか

[ 『広報きなじん』(今帰仁村 平成2年11月1日発行)より転載 ]

 

写真1 仲原馬場(昭和30年代後半)
馬場付近の宿道沿いの松並木
写真2 馬場付近の宿道沿いの松並木(昭和30年代後半)
仲原馬場
写真3 昭和35年頃の仲原馬場

 ナカバルババ(仲原馬場)は別名マーウイとも呼ばれ、今帰仁小学校の西側に位置する。よく写真に写される場所であり、戦前、戦後の写真が何枚か残っている。仲原馬場は昭和三十四年に県の文化財(史跡)指定をうけている。馬場は距離にして約250m、幅約30mあり、中央部に石垣が残り(写真1・2 の中央部の左側)アブシバレーや間切(現在の村)行事の時の来賓席だったという。

 写真1・2にみるように競走路の両側には松の大木が並木をなし、その風景は見る人の胸をうつ。それらの松は、別名蔡温松(さいおんまつ)とも呼ばれ松の樹齢を感じさせる。大木の松が数少なくなったが、老松の間に30年余りの若松が勢いよく成長し、松の世代交代をみせつけている。馬場の左側にキビ畑がみえ、まだ運動場が移転する前(昭和30年代後半)の風景である。

 今帰仁(なきじん)村には、仲原馬場のほかに、今泊や天底にも馬場があった。馬場は人工的な施設であり、いつ頃からつくられたのかはっきりしないが、『球陽』の1695年の記事に首里に戯馬場がなく、各地に行き騎馬の方法を習って、馬場を西原郡(間切)平良邑に開いたとある。それ以前の『坑球諸島航海日誌』(1614〜15年)にも競馬が行なわれていたことを記してある。今帰仁の仲原馬場の起源については、今のところ定かでない。

 『沖縄県統計概表』(明治13年)は、「馬場ナルモノハ毎歳収穫ノ時ニ至り一間切ノ人民此相会シ各穀物ノ熟否ヲ較ヘ随テ平生労力ノ勤怠ヲ鑑別スル所ナリ」とあり、馬場に間切の人民が揃い原山勝負を行なう施設であった。その余興として競馬が開催された。

 

 今帰仁村の仲原馬場は字の示す通り、仲原にある競馬場ということになるが、現在字越地の小字与比地原(ユピチバル)に位置する。越地は昭和12年に謝名と仲宗根の一部をあわせてできた字(アザ)である。馬場のある地が仲原という地名であったとみられる。それを証拠づけるように、明治13年の『沖縄県統計概表』に「仲原(今帰仁)」、明冶31年の『琉球新報』に「今帰仁尋常高等小学校の新築工事請負入札広告」があり、「但、敷地は今帰仁間切謝名村字中原にして…」 同様に明治32年「今帰仁尋常小学校に高等科を併置し、今帰仁小学校と改称、敷地を謝名仲原253番地(現敷地)に新築移転」と記し、明治31、32年頃は現在の今帰仁小学校あたりは字仲原であったことがわかる。仲原馬場と呼ぶのは、現在の馬場一帯が仲原という小字で、それにちなんで名付けられたと思われる。小字の組替がなされても、かつての呼び方を踏襲し、仲原という地名と人工的施設である馬場が連称され、「仲原馬場」と呼ばれている。その仲原馬場は、本来今帰仁間切の公共的な施設で、アブシバレーや原山勝負などを行なう施設で、競馬や闘牛・相撲などはその余興として行なわれた。

 写真3は、昭和35年頃の県道沿いの松並木(一部仲原馬場)である。昭和33年の記録をみると、謝名から今泊に至る街道の両側にある琉球松の大木は約410本あったと記している。写真の手前右側に運動場があり、バスが通っている場所は二又に別れていた記憶が今に残る。また、バスの右側の上手に松の幼木が植えられていた30年前のことが思いだされる。

文:仲原 弘哲 (現:今帰仁村歴史文化センター 館長 当時:歴史資料館準備室)


なきじん研究表紙今帰仁村役場より「広報なきじん」を、今帰仁村歴史文化センターより写真をご提供いただきました。心よりお礼申し上げます。

参考資料

 なきじん研究 2002 Vol.11 今帰仁村歴史文化センター 平成14年3月発行

 本書は一編「写真にみる今帰仁」二編「今帰仁の歴史散歩」三編「ムラ・シマを歩く」の3編からなり、多くの写真やコラムでわかりやすく今帰仁の歴史を綴っています。「松並木のある風景」「今帰仁街道の松並木」他、マツにまつわる記事にふれ、松は私たちの”原風景”であることを強く感じました。

現在の仲原馬場

 「身近な松原散策ガイド−109 仲原馬場−」をご覧ください。

先頭へもどる
 
次のページしばらくお待ちください
グラフィック グラフィック
このホームページに掲載の記事・写真の著作権は財団法人日本緑化センターに帰属します矢印著作権について